黙想(病人の癒しと十字架)

  • 2011/01/05(水) 13:36:54

昨年末、私は長らく風邪をひいていた。
途中、薬が合わなくて蕁麻疹まで出た。
ぶつぶつと赤くなった手を眺めながら思ったこと。

病気をするって淋しいなあ…

そしてイエスにすがった病人たちを思い出した。
「おのぞみなら清くすることが出来ます」とすがった皮膚病人。
「見えるようになりたいのです」と叫んだ盲人バルティマイ。
「誰も池に入れてくれる人がいないのです」と呟いたベトサダの池の病人。
せめて衣に触れたいと願った長血の女…。

病気だから働くことが出来ない。
誰かに必要とされているという実感も持てない。
その上、当時は汚れているとか神の呪いだとかという差別意識まで持たれ…。
そんなどん底の孤独の中に居た彼らにとって、
イエスの存在はやっと見つけた希望の光だったろう。
だが、人気者のイエスに近づくことはたやすくは無い。

長血を患う女のことを思った。
健康な人が人混みをかき分けてゆくのとはわけが違う。
しかもその病気は汚れとされているのだ。
苦しい体を引きずり、なおかつ人目を忍び…。
元気な人に押しのけられたりもしたかもしれない。
弱った体に鞭打って、必死に伸ばした指先がやっと衣の先に触れる。

その思いが指先から伝わったのだろう。
イエスは癒された彼女を探した。
たくさんの人が押し寄せる中、ただの野次馬ではない必死の想いを
「私は気付いたよ、受け取ったよ」と言いたかったから。

想いを受け取る。
共感する。
それが癒しの源ではなかろうか。
自分を受け入れて貰えることほど大きな喜びや安心は無い。
誰かが自分の気持ちを分かってくれた時、
また分かろうとしてくれている時、
人は慰められ、力づけられる。

今回の黙想中、十字架上のイエスと長血の女から得たインスピレーションがつながった。
受難は究極の共感だったのかもしれない。
イエスはありとあらゆる人間の悲しみ、苦しみ、痛みに共感するために、
苦しみを耐え忍んだのではないだろうか。
嘆き悲しむすべての人と苦しみを共にするため、イエスは留まった。
あの十字架の上に。

Sr.ぱうろ

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