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親心

  • 2022/01/16(日) 11:57:32

少し前に黙想会の分かち合いをした。
黙想会は一年の間に4~回あって、そのうちのどれかに参加する。
毎回指導者は違うし、一人ひとり違う恵みを頂いてくるから、
分かち合えば恵みは倍増する。
私も5ヶ月前の黙想会のノートを出してみた。

何度も読んだ聖書の箇所でも、時に新たな発見がある。
今年の発見は「必死の親心」
12歳のイエスが神殿に留まって、両親を心配させた場面だ。
エルサレム巡礼の後、イエスの両親は息子が居ないことに気づかず帰路につく。
三日も経ってから「イエスが居ない!」と気づいて引き返す。
そしてエルサレムの神殿で律法学者たちの中に居るイエスを見つけるのだ。
母は「どうしてこんなことをしたの。私もお父さんも心配したのよ」と言う。
ところがイエスは「どうして探したの。僕が「父の家」に居るのは当たり前なのに」と答える。

正直この話は好きじゃなかった。
「生意気な少年と叱る母」というイメージだったからだ。
・・・が、両親の立場を考えた時、違うものが見えてきた。
三日間、息子を探し続けた両親はどんな気持ちだったのだろうかと。
「無事で居るだろうか」という不安。
「どうしてもっと早く気づかなかったのか」という自責の念。
「早く見つかって」という焦り。
次々と押し寄せる想いに胸が潰れそうな長い長い三日間。
食事は喉を通らず、夜も眠れない・・・どころか
寝食の間も惜しんで探し回ったに違いない。
神殿の中で息子を見つけた時はどんなに安心したことか。

母マリアは緊張の糸が切れて泣いたのではないだろうか。
その安堵感が「どうしてこんなことをしたの」という
感情的な言葉になったのかもしれない。
必死に自分を探し回っていた両親の姿を見て、
少年イエスは自分がどんなに大切に思われていたか実感したと思う。
この体験が
「迷子の羊を探す羊飼い」や
「放蕩息子」のたとえ話になったのではないか。
子どものために必死になる親。
失った子が見つかれば心から喜ぶ親。
天の父なる神もそのような存在であると。

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