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無事・・・

  • 2022/01/25(火) 20:51:40

この頃「無事」ということがとても貴重に思えてきた。
一日の終わりに「今日も健康に生きていた」ことを確認し、
朝、目覚めた時に「温かな布団の中に居る」ことに感謝する。

日々、新型コロナの感染が拡大してゆく中、
今日まで感染せずに居ることは奇跡だと思うようになった。
世界中で大きな災害が起こっていること、
紛争などで安全が脅かされている方がたくさんいらっしゃることを考えると、
安全な建物の中で目覚めることも、実はとても貴重でありがたいことだと思う。
一方で困難な状況にある方々に申し訳ないとも思う。

「無事」という言葉がある。
「事が無い」というと何となくつまらないような気がしていたのだが、
何事も無い平穏な日々が、実はとても恵まれているということを
噛み締める今日この頃。

明日も無事でありますように。

親心

  • 2022/01/16(日) 11:57:32

少し前に黙想会の分かち合いをした。
黙想会は一年の間に4~回あって、そのうちのどれかに参加する。
毎回指導者は違うし、一人ひとり違う恵みを頂いてくるから、
分かち合えば恵みは倍増する。
私も5ヶ月前の黙想会のノートを出してみた。

何度も読んだ聖書の箇所でも、時に新たな発見がある。
今年の発見は「必死の親心」
12歳のイエスが神殿に留まって、両親を心配させた場面だ。
エルサレム巡礼の後、イエスの両親は息子が居ないことに気づかず帰路につく。
三日も経ってから「イエスが居ない!」と気づいて引き返す。
そしてエルサレムの神殿で律法学者たちの中に居るイエスを見つけるのだ。
母は「どうしてこんなことをしたの。私もお父さんも心配したのよ」と言う。
ところがイエスは「どうして探したの。僕が「父の家」に居るのは当たり前なのに」と答える。

正直この話は好きじゃなかった。
「生意気な少年と叱る母」というイメージだったからだ。
・・・が、両親の立場を考えた時、違うものが見えてきた。
三日間、息子を探し続けた両親はどんな気持ちだったのだろうかと。
「無事で居るだろうか」という不安。
「どうしてもっと早く気づかなかったのか」という自責の念。
「早く見つかって」という焦り。
次々と押し寄せる想いに胸が潰れそうな長い長い三日間。
食事は喉を通らず、夜も眠れない・・・どころか
寝食の間も惜しんで探し回ったに違いない。
神殿の中で息子を見つけた時はどんなに安心したことか。

母マリアは緊張の糸が切れて泣いたのではないだろうか。
その安堵感が「どうしてこんなことをしたの」という
感情的な言葉になったのかもしれない。
必死に自分を探し回っていた両親の姿を見て、
少年イエスは自分がどんなに大切に思われていたか実感したと思う。
この体験が
「迷子の羊を探す羊飼い」や
「放蕩息子」のたとえ話になったのではないか。
子どものために必死になる親。
失った子が見つかれば心から喜ぶ親。
天の父なる神もそのような存在であると。

修道院のお正月

  • 2022/01/01(土) 10:37:56

ここ数年、年末年始は黙想会に行っていたので、
ものすごく久しぶりに(今の修道院に異動してからは初めて)
共同体で正月を過ごしている。
何人もの働き手が黙想に行って留守なので、
思いのほか忙しい。

いつもは当たり前のように思っていたけれど、
聖堂のエアコンを管理してくれていたシスター、
朝一番で談話室のカーテンを開けていたシスター、
神父様の朝食を用意しているシスター、
皆が見る予定表を書いているシスター。
いつもありがとう。

さて留守番チームが時間をかけて用意した今朝の食事。
最高に美味だった。

おせち料理
おせち料理

お雑煮
お雑煮

謹賀新年

  • 2022/01/01(土) 10:30:12

新しい年が始まりました。
どうぞ皆様が健康で幸せでありますように。
特に、新年を祝える状況に無い多くの方々の上に、
神様が必要な助けと希望を送ってくださいますように。
神の母聖マリアの取り次ぎによってお祈り申し上げます。

廊下のマリアさま