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ひなあられ
- 2012/01/28(土) 17:24:29
もう一月も終わり。
来週は節分、そして一ヶ月後にはひなまつり。
小学校の学童保育は年中行事に敏感だ。
おやつの準備をする身としては、
こんな時にはそれらしいものを仕入れるようにしている。
来週は豆のお菓子。
バレンタインデーの週にはハート形のパイやマシュマロ。
チョコレート味のビスケットなど。
(チョコレートそのものは、食べられない子も居るので出さない)
そしてひな祭りには…。
私は関東の人間だ。
関西に移住して8年になるが、
この間、東西の文化や言葉の違いを何度か発見した。
餅が丸いことや、
エスカレーターの立ち位置が左右逆なことは気にならない。
でもやっぱり関東の方がいいなあ…と思うことが一つだけある。
それは「ひなあられ」
関東のあられは「米」そのもの。
乾いた米に色とりどりの砂糖をまぶしてある。
その中に大粒の丸いあられや豆が少し混じっている。
一方、関西のあられは名前の通りの「あられ」で塩味orしょうゆ味。
初めてこの甘くない「ひなあられ」に出会ったときは、
少なからずショックを受けた。
この季節になるたびに、
百合の子たちにも関東風ひなあられを紹介したくなる。
同じひなあられでも、地方によって色々ある。
日本は小さな国だけど、色々な文化がある。
そんなことをおいしく発見して欲しい。
ちなみに近隣のスーパーや菓子店で、
関東風のひなあられを見たことはない。
取り寄せてまで出すかどうか…。
難しいところだ。
Sr.ぱうろ
- 食
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人生、山あり谷あり
- 2012/01/25(水) 21:49:41
本日は「パウロの回心」の祝日。
去年の今日もこの出来事について書いていた。
http://josephosaka.blog111.fc2.com/blog-entry-420.html
パウロの人生を想うたびに感じる。
人生予定通りに行かなくても、
決して不幸とは限らない。
パウロはイエスと出会ったがために、
今まで積み上げてきた信頼や名誉、生活の全てを失った。
しかし新しく得たものは、
失ったもの以上の価値があった。
傍目には愚かな人生だったろう。
イエスのためにかつての仲間から裏切り者と呼ばれ、
命まで狙われた。
使命のために散々苦労し、最後は殉教。
…が、ユダヤ教徒としてのエリート人生を歩み続けていたら、
パウロの名前が歴史に残ることは無かったのではないか。
死後も多くの人をキリストの教会に招き続けているパウロ。
人間誰しも生きている時だけで、その人生の価値を測ることは出来ない。
今、現在何かがうまく行かなくても、
失敗ばかりに思えても、
遠い未来にそのことの価値が分かることもある。
目先の小さなことに動揺したり、くよくよしがちな私だけれど、
パウロの言葉や生き様は、いつも新しい力を与えてくれる。
Sr.ぱうろ
- 祈
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空
- 2012/01/20(金) 21:34:46
こちらはカメラ内のデータを整理していて発見した写真。
神秘的な雲間の太陽。
撮影日を見ると8月のはじめ。
そうそう、この頃は朝の屋上で祈るのがマイブームだった。
(今は寒過ぎて無理…)
私は屋外で祈るのが好きだ。
風、太陽、樹木、大地、鳥の声…。
創造主の作品である様々な命に囲まれていると安心する。
その日は神秘的な空の様子を撮りたくて、
カメラを持って屋上に上がった。
大きな空に包まれていると、
人間の小ささを感じると同時に、
創造主である父なる神の守りも感じる。
空はどんな大都会の上にもある。
たとえビルの谷間からでも、
青い空と白い雲を覗き見ることは出来る。
高層ビルの展望台から眺める空は、
人間が造った街よりも広くて大きい。
創造主の力を一番身近に確実に再確認させてくれる。
↑
9年前、東京青山で見た夕暮れの空。
亡くなった人を想う時も、やはり空を見上げる。
天の国は私たちの間にある…とイエス様はおっしゃったけど、
いわゆる天国に行った人のことを考えるとき、
空の彼方にその人の面影を思い浮かべることは少なくないと思う。
最近、ごく身近な方が急死された。
私の周辺ではこの一週間、その話が出ない日は無かった。
誰しも明日のことは分からない。
あの美しい空の上、偉大なる御父の懐で、
すべての死者が幸福に憩われていることを心から願う。
Sr.ぱうろ
- 祈
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発掘
- 2012/01/14(土) 21:50:54
キリストの体
- 2012/01/11(水) 21:00:29
今年度のひそかなMyテーマ。
「教会の中高生たちに『キリストの体』を語る…」は、
年が明けても継続している。
去年はパウロの手紙から入ったが、
「キリストの体」を頂くミサについても、
しっかり話さねばなるまい。
どこから入るか。
ふと堅信の時に司教様(横浜教区の)に聴いたお話を思い出した。
ミサの前に私たちは自分の分のホスチアを
チボリウムに入れておく。
そのホスチアは司祭の祈りによって聖変化し、
「キリストの体」となり、再び私たちに配られる。
しかし実際に自分の手元に配られるものは、
誰がチボリウムに入れたものか分からない。
自分が入れたホスチアも、
誰の体に入るのか分からない。
誰かが自分のために、自分も誰かのために…。
私たちはお互いに養い合っている…というようなお話だった。
もうひとつ思い出したのは、
はるか昔、まだ修道会に入る前に与った聖公会の聖餐式。
拝領の際に司祭は
「あなたのために渡されたキリストの体」
と言って、キリストの体となったホスチアを信徒に与えていた。
「あなたのために」という言葉は、
直接ひとりひとりに刺さってくるから、
ぐっ!と来る。
そんなにも愛されていたのだと強烈に感じる。
…さて…どこから話そう…。
Sr.ぱうろ
- 祈
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黙想の恵み
- 2012/01/04(水) 21:42:21
今回の黙想の中で、一番心に刺さったもの。
マーガレットパワーズの「足跡」という詩。
幸せな時、平常時には共に居る神を信じることが出来ても、
どん底に居る時には神を見失ってしまう。
ずっと神と二人で歩いていた筈なのに、
どん底の時に限って足跡が一人分しかない。
あの時あなたは私を見捨てたのか…と問うと、
神は応える。
「あの時は私があなたを背負っていたのだ」と。
この詩は前から知っていたが、
自分の人生の中の
「神に背負われていたと思われる時期」を思いめぐらした時、
その日々の悲しみがあまりにも鮮明に蘇り、
苦しくてたまらなくなってしまった。
あれから長い年月が経っている。
それは大きな苦難を乗り越えたという人生の勲章でもあるのだが、
やはり体験したくないことだった。
正直、神を恨みたくなったが、
この前から囁き続けているパウロの声がこだまする。
「苦難は忍耐を忍耐は練達を練達は希望を生むのだよ」
さらに自分が子供たちにかけてきた言葉も追い打ちをかける。
「苦手なものも食べないと大きくなれないよ」
親は栄養のバランスを考えて食事を与える。
その中には子供の嫌いなものもあるのだが、
親が悪いものを与えるわけはない。
すべて感謝して食べてこそ、心身の健康が育まれるのだ。
自分にとって心地良いことばかりが恵みではない。
しかし苦しいことはやはり避けたい。
私は弱い者なのだった。
Sr.ぱうろ
- 祈
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謹賀新年
- 2012/01/04(水) 20:54:37
新しい年が皆様にとって希望に満ちたものでありますように。
特に、今もなお不自由な生活をされている被災者の方々、
病床で新年を迎えられた方、
様々な事情で傷つき悲しんでいる方々の上に、
必要な助けと慰めがありますように。
そしてすべての子供が、
心身共に健やかに成長しますように。
Sr.ぱうろ
- 祈
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