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結婚しない(かもしれない)女の子たち
- 2011/01/28(金) 20:56:13
学童保育に来る児童たちは1~3年の低学年。
だからまるで屈託が無く、夢は大きく、話すととても面白い。
おやつの後は班ごとに片づけをして、
テーブルをキレイに拭くことになっているのだが、
きちんとする子も居れば、早く遊びたい一心で適当に終わらせる子も居る。
ある時、自分の所だけでなく、
拭き残しのある隣のテーブルまでキレイにしている子が居た。
私が
「○○ちゃんはいいお嫁さんになれるね」と褒めると、
彼女いわく
「お嫁さんにはならないの」
「じゃあ何になるの?」
「東京大学の先生!!!」
…○○ちゃん、その夢大き過ぎないか???
いや、まだ小学二年生だから可能性は未知数か。
こんな会話がまだまだある。
「私もお嫁さんにならないー」
「Y子もぉ」
「じゃあ、何になるの?」
「宝塚歌劇に入るぅ」
「私はナイチンゲールみたいに働いて、その後シスターになる!」
彼女たちの将来が楽しみな半面、
結婚しない子ばかりなことが、ちょっとばかり気がかりだ。
「私は結婚してお母さんになる!!!」と言う子は居ないのだろうか。
それとも「お嫁さん」という表現がダメだった???
Sr.ぱうろ
- 学校
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パウロの回心
- 2011/01/25(火) 22:50:14
本日、パウロの回心の祝日。
尊敬してやまない私の師匠パウロとキリストとの出会いを祝う日。
だから私はこの日に修道名のお祝いをしてもらう。
少し前に10年前の私と現在の私はまるで別人…と書いたが、
それはパウロも同じだったと思う。
律法を守ることに関しては完璧、
ユダヤ教徒としてはエリート中のエリートだったパウロ。
だからこそ怪しげな新勢力を徹底的に迫害した。
そんな自分が、まさかその怪しげな新勢力を世界に広めるために選ばれるとは、
思いもしなかったに違いない。
しかもキリストに出会って生まれ変わったパウロの日々は、
困難と試練の連続だった。
けれども彼自身はそれ以前の人生よりも喜びに満ちていた。
パウロの残した手紙は、日々私たちに力を与えてくれる。
私もパウロの言葉に育てられてきた。
永遠の師匠、聖パウロ。
私もいつの日かこんなかっこいいことを言ってみたい。
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。
(Ⅰコリント9.23)
Sr.ぱうろ
- 祈
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鼻歌・・・?
- 2011/01/21(金) 21:26:26
今週は授業参観や新一年生のお道具渡しなどで慌しかった。
私は午前中は事務室の仕事をするが、午後からは学童保育の手伝いに行く。
だから今週のような時は一日中、走っている。
そんな怒涛の一週間も最終日の今日はいつものリズムに戻った。
のんびりと頭を使わない作業をしていると、
いつの間にか鼻歌を歌っていた。
なんだっけ…このメロディー。
…神はエジプトで人もけものも初児をことごとく打たれた…。
なんと修道院で日々捧げられる「教会の祈り」のメロディーだった!
修道者は皆「教会の祈り」という聖務日課を捧げる。
私たちの共同体では平日の朝の祈りと水・金の晩の祈りは共同で行う。
共同で唱える祈りは、私にとっては一日のうちで一番心安らぐ時間。
特にメロディーをつけて歌うと、ただ唱えるだけの時より心地よい。
いつの間にか鼻歌になっていたのは、その祈りのメロディーだった。
「歌う者は倍祈る」という言葉があるけれど、鼻歌なんてアリ…!?
Sr.ぱうろ
夢の中でも・・・
- 2011/01/16(日) 13:24:21
ふとした気の迷いから、
今年の中高生会(教会の)はしっかり勉強するぞ!と心に誓った。
私たちは転勤族だから、いつまでこの子たちと御一緒出来るかわからない。
ご一緒出来るうちに、私が学んできた色々なことを少しでも多く伝えておこう。
…ということで、
去年宗教の授業でやったような資料やお勉強プリントを作りはじめている。
人に教えるためには自分もしっかり予習復習をしなければならない。
よほど自分にプレッシャーをかけてしまったのか、今朝は勉強する夢を見た。
大学でお世話になった神父さまのもと、
参加者が旧約聖書と新約聖書のどこかを読んで論じている。
私は旧約聖書の方が読み込めておらず、
新約聖書の方だけを一生懸命話していた。
「わたしはヘブライ書を読みました。
ここには司祭職について書かれていて…」
その後も必死に言葉をつなげてがんばっていたが、
何が何だか話している自分にもわからない。
大丈夫なのか私…。
…と思ったけれど、今日の中高生会はなんとかなった。
これからもなんとかなりますように。
Sr.ぱうろ
もしも魔法が使えたら
- 2011/01/13(木) 21:34:35
テレビを見ていたら、こんな質問が出てきた。
町の人々がインタビューに答えて
「若返りたい」
「空を飛びたい」
「透明人間になりたい」
など色々な夢を語っていた。
スタジオの芸能人も
「タイムマシンを作って江戸時代に行ってみたい」と。
私なら、どんなに遠いところも見える魔法の水晶玉が欲しい。
子供の頃見た人形劇で、魔女のお母さんがこんなものを持っていたのだ。
お母さんはいつも水晶玉で子供たちの様子を見守っている。
あるとき、その子供たちが海賊の宝物を見つけた。
そして宝物を奪い合って喧嘩をはじめた。
するとお母さんは魔法で宝物を空のむこうに飛ばしてしまう。
私も魔法の水晶玉で遠くに居る友人たちの安否を確認したい。
そして、もし病気や悲しい思いをしていたら応援メッセージを送りたい。
知らないうちに天国に行かれるのは、とても悲しかったから。
Sr.ぱうろ
変われば変わる
- 2011/01/10(月) 17:46:41
友人の訃報ショックで、しみじみ感じたこと。
人間、先のことは本当にわからないなあ。
とても明るくて健康な人だったから、
こんなに早く亡くなるなんて想像もできなかった。
でも、それを言ったら私だって。
もし中高生時代の私が今の私を見たら、
どんなにびっくりするだろう。
シスターのくせに仏教の話をし、
「授業と関係の無い質問」にも、
楽しげに応えている自分。
真面目で堅物だった当時の私は、
思わず白い目を向けてしまいそうだ。
二十代の私は、
結婚していないことにショックを受け、
しかもシスターなことに動揺し、
それはそれはがっかりするに違いない。
「やっぱり失恋したんだ」
「もうおしゃれな服も化粧もダメじゃん」
「一生懸命ためた貯金はどうなったの?」
「なんで関西で暮らしているの?」
「大体、どうして洗礼を受けたの?どうして?どうしてっっ?」
…漠然とながら夢に見ていた未来像が何もかもぶち壊しになり、
あり得ない場所であり得ない仕事をしている私。
当時の私が知ったら、もう人生が嫌になってしまうところだった。
でも、過去のどの時代の私にしても、
現在の私と人生やキリスト教について語りあったなら、
確実に尊敬のまなざしを向けるだろう。
毎日、キレイでおいしい弁当を仕込み、
編み物までしてしまう自分をかっこいいと思うだろう。
見た目では20代の自分には到底勝てないが、
知性や人間性の上では、今まで生きてきた中で最高だと思う。
(あくまでも自分比です。念のため)
こんなに日々を楽しく暮らしていたことは無い。
数々のチャレンジが人生を豊かにしてくれた。
この上、年齢とともに謙虚さが身につけば言うことなし。
トラピストの司祭トマス・マートンの日記にこのような一節があった。
「10年前の自分と今の自分はまるで別人だ。見た目以外は」
私もそう思う。
10年前の自分と今の自分はまるで別人。
自分がこのような未来を生きているとは夢にも思わなかった。
Sr.ぱうろ
初手芸
- 2011/01/08(土) 14:29:32
今年の目標
- 2011/01/06(木) 19:30:39
FC2ブログのトラックバックテーマとして、
「今年の目標を漢字一字で答えてください」というのがあった。
面白そうだから考えてみた。
しかし実際に思いついたのは面白いというより重い…。
「生」
一昨日、黙想が開けて帰って来た私を待っていたのは、
友人の訃報だった。
私が関西に来てからは一度も会っておらず、
年賀状のやりとりしか出来なかった。
昨年は私が喪中で年賀状を出せず、
今年、二年ぶりの年賀状を出したら彼女のご主人から電話。
彼女は二年前に癌で帰天していた。
まだ幼稚園児だった一人息子を残して。
自分より若い友人が、小さな子供を残して逝ってしまう。
こんな哀しいことはない。
家族の居る友人の死はもう二度目だ。
大好きなママであり、優しい妻である人が亡くなって、
家族の居ない私が生かされているのは何故なのか。
しかし、いつかは私にもお迎えが来る。
それまでに何をするべきなのか、
何のために私は生まれてきたのか、
生きるということの意味を、
今年は真剣に考えてみたい。
Sr.ぱうろ
黙想(病人の癒しと十字架)
- 2011/01/05(水) 13:36:54
昨年末、私は長らく風邪をひいていた。
途中、薬が合わなくて蕁麻疹まで出た。
ぶつぶつと赤くなった手を眺めながら思ったこと。
病気をするって淋しいなあ…
そしてイエスにすがった病人たちを思い出した。
「おのぞみなら清くすることが出来ます」とすがった皮膚病人。
「見えるようになりたいのです」と叫んだ盲人バルティマイ。
「誰も池に入れてくれる人がいないのです」と呟いたベトサダの池の病人。
せめて衣に触れたいと願った長血の女…。
病気だから働くことが出来ない。
誰かに必要とされているという実感も持てない。
その上、当時は汚れているとか神の呪いだとかという差別意識まで持たれ…。
そんなどん底の孤独の中に居た彼らにとって、
イエスの存在はやっと見つけた希望の光だったろう。
だが、人気者のイエスに近づくことはたやすくは無い。
長血を患う女のことを思った。
健康な人が人混みをかき分けてゆくのとはわけが違う。
しかもその病気は汚れとされているのだ。
苦しい体を引きずり、なおかつ人目を忍び…。
元気な人に押しのけられたりもしたかもしれない。
弱った体に鞭打って、必死に伸ばした指先がやっと衣の先に触れる。
その思いが指先から伝わったのだろう。
イエスは癒された彼女を探した。
たくさんの人が押し寄せる中、ただの野次馬ではない必死の想いを
「私は気付いたよ、受け取ったよ」と言いたかったから。
想いを受け取る。
共感する。
それが癒しの源ではなかろうか。
自分を受け入れて貰えることほど大きな喜びや安心は無い。
誰かが自分の気持ちを分かってくれた時、
また分かろうとしてくれている時、
人は慰められ、力づけられる。
今回の黙想中、十字架上のイエスと長血の女から得たインスピレーションがつながった。
受難は究極の共感だったのかもしれない。
イエスはありとあらゆる人間の悲しみ、苦しみ、痛みに共感するために、
苦しみを耐え忍んだのではないだろうか。
嘆き悲しむすべての人と苦しみを共にするため、イエスは留まった。
あの十字架の上に。
Sr.ぱうろ
- 祈
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